第4章メガチップス創業

8.創業の決意半導体産業のあり方に疑問

大きな成功を収めながら、進藤は日本の半導体産業のありかたに疑問を感じていました。
80年代後半、世界を席巻した日本の半導体は日米半導体貿易摩擦問題を起こし、米国の産業を衰退させるとまで言われました。しかし米国の真の競争力は産業上流の応用やアルゴリズムといった創造的な技術分野であるので、産業下流の生産が海外に移っても産業上流における国際競争力で米国の産業は必ず再成長すると進藤は確信していました。
一方日本は、工場を中心とした生産力を競争力とするハード偏重の体質。進藤はシリコンバレーで見たファブレス形態(顧客の注文に合わせてLSIを設計し、生産は外部の半導体企業に委託する方式)こそが、新規に半導体産業に参入するベンチャーにとっては生き残りのカギだと考えていました。このような考え方は製造技術を競争力に工場を主体にした従来型の経営を目指す会社とは、大きな隔たりがありました。ファブレスに否定的なのは社内だけではありません。進藤は各方面から非常識だ、気が狂ったと非難されました。
これで進藤の反骨精神に火がつきました。「自分の考えが正しいことを証明しよう」と、それまでにない企業像を目指して、残りの人生をかける決心をしました。

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  • 1987年(昭和62年) 国鉄分割民営開始
  • 1989年(平成元年) ベルリンの壁崩壊

9 .メガチップス創業バブル期に、オフィスレスと失業を乗り越える

進藤は1990年の正月明けに会社に辞表を提出しました。システムLSIに特化した研究開発型のファブレス企業を育てるという壮大な夢に懸けたのです。
仲間も6人ついてきてくれました。7人の侍による「LSIとシステムの知識の融合を核にして、システムLSIに特化した新たな半導体企業」への挑戦が始まりました。DRAM (Dynamic Random Access Memory)のような画一的な製品で熾烈な競争を繰り広げる大手企業とは違う、新しい方向への船出でした。

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しかしすぐに壁に直面しました。担保がないので事務所が借りられません。最初の3ヵ月は趣味の会やサッカー同好会と偽って近辺の公民館を転々と借り歩き創業準備を行いました。銀行口座も開設できません。結局、飛び込みで入ったビルや銀行で、部屋を借り、口座を開くことができやっとの思いで創業にこぎつけましたが、創業メンバー全員が2ヵ月の失業期間を経験しました。
創業すると、メンバーがそれぞれの人脈を頼りに、注文を取りに走りだしました。

  • 1990年(平成2年) 東西ドイツ統一
  • 1990年(平成2年) 大阪花博開催
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