創業者ヒストリー 進藤晶弘

成長は変化なり。人間、変化を求めない限り成長はない。

数々の世界初、業界初を生み出し「メガチップス」をわずか8年で上場するほど大きく成長させた創業者とは、いったいどのような人物だったのでしょうか。
生涯を通して常に挑戦し続け、人材育成にも尽力した「進藤晶弘」(シンドウマサヒロ)の人物伝をご紹介します。

成長は変化なり。人間、変化を求めない限り成長はない。

数々の世界初、業界初を生み出し「メガチップス」をわずか8年で上場するほど大きく成長させた創業者とは、いったいどのような人物なのでしょうか。
生涯を通して常に挑戦し続ける「進藤晶弘」(シンドウマサヒロ)の人物伝をご紹介します。

第1章小学校から大学まで

1.病弱な子ども時代「お前は一度死んだ人間や」

写真

進藤晶弘は1941(昭和16)年、愛媛県新居浜市で生まれました。小学2年の時大病を患い、3回手術しています。そのたびに両親は医者から「覚悟するように」と言われましたが、奇跡的に助かりました。しかし、全身麻酔による後遺症で記憶喪失になり周囲を心配させました。両親は健康だけを願い「勉強しろ」とは一切言いませんでした。遊んでいれば親が喜ぶので、進藤は学校から帰ると、暗くなるまで山や川、海で遊びました。その結果自然相手に冒険心や決断力が養え、母親からは「お前は一度死んだ人間や。どんなにつらいことでも乗り越えられる」という言葉を聞かされて、腹も据わりました。

オール優だった成績がいくら落ちても気にしませんでしたが、後遺症が薄れた中学1年の時、試験で高得点を出したときに、先生に「よくやった、やればできる」と褒められたことがうれしくて、勉強にも励むようになりました。そして高校は地元の名門に進学しました。

  • 1941年(昭和16年) 真珠湾攻撃、太平洋戦争勃発
  • 1945年(昭和20年) 広島長崎への原爆投下、敗戦

2.高校・大学時代化学への興味

高校の授業で見た化学反応に、身が震えるような感動を覚えて、化学に興味を持つようになりました。大学で化学を学びたかったのですが、兄が進学していたため、進藤は就職して家計を助けてくれるものと思われていました。そんな折、地元の愛媛大学に工業化学科が新設されました。高校の恩師が、国立大の授業料は高校より安く自宅から通えると両親を説得して、進藤の進学希望をかなえさせてくれました。

イラスト

希望に胸を膨らませ第1期生として入学した工業化学科は、実験器具もなく、授業内容も決まっていない状態。進藤らは教官と一緒になって、実験の環境作りから始めました。この体験から、ゼロベースから物事を立ち上げて成し遂げる楽しさ、やりがいを学びました。
卒業後は住友化学や帝人、東レなどの化学系に行くつもりでした。しかし指導教授から「化学系の会社には化学屋がたくさんいるから大事にされない。化学屋が珍しいところに行け」と言われました。研究室も電気化学だったので、就職先は三菱電機に決めました。

  • 1958年(昭和33年) 東京タワー完成
  • 1959年(昭和34年) 皇太子殿下御成婚

このページのトップへ