第2章社会人としてスタート

3.三菱電機に入社目先の不運を嘆くべからず

進藤は入社後、新設されたばかりの京都製作所に配属されました。ここでも第1期生でした。同僚は当時の進藤の印象を、「後の大胆な行動やエネルギーを感じさせるものはなかった。どちらかというと無口で地味な存在だった」と振り返っています。

写真

京都製作所では光センサーの製造課に配属されましたが、当時はまだ需要が少なく、事業として成り立ちませんでした。会社は、事業から撤退することを決断し、撤収作業を進めましたが、進藤ら大卒の3名は次の配属先が決まらず、がらんとなった事務所に取り残されました。最初は専門書で勉強していましたが、やがて専門書は小説に、さらに週刊誌へと変って、無為に時間ばかりが過ぎていきました。目的を失った時間を過ごすことに我慢できずに辞表を出すと、ようやく会社も腰をあげ、光センサー技術をミノルタカメラ(現コニカミノルタ)に移管することを決定。進藤ら3名が出向して技術移管にあたることになりました。
進藤は入社後の2年間で、事業撤退、窓際族、出向、転勤とサラリーマンの縮図をひと通り経験しました。この期間は今振り返ってみればどんな困難にも負けない精神力や起業家精神を無意識の間に学んでいた2年でした。

  • 1963年(昭和38年) ケネディ大統領暗殺
  • 1964年(昭和39年) 東海道新幹線開業、東京オリンピック開催

4.ライフワークとなるICに出合う初めて自分の存在感を感じる

光センサーの技術移管を終えて会社に戻った進藤は、半導体集積回路(IC)事業のスタートを切った北伊丹製作所に転勤しました。会社初の半導体集積回路の事業化でしたので、ここでも1期生からのスタートでした。
最初の1年は、管理部門で仕様書の標準体系作りや原価計算、事業計画、投資計画、生産計画策定などに携わりました。しかし、半導体のプロセス技術者として2年間遠回りしてきた進藤は、初めから準備に携わっていた同期から、「あんたみたいなのは使いもんにならん」と心無い言葉を浴びせられました。負けじ魂に火がつき、必ず追いつこうと熱い気持ちがこみ上げました。

この頃の日本にはまだ集積回路の文献もなく、ICの黎明期といえる時代でした。進藤は少しでも多く知識を得るため、先輩や技術者のほか、当時ICの生産を下支えしていた「トランジスタ・ガール」にも教えてもらいました。文献や作業仕様書を読み、現場の女性たちの作業を見、実際にその作業もさせてもらい学びました。進藤は同期より遅れている分を取り戻そうと、会社で過ごす1分1秒を大切に死に物狂いで勉強しました。

イラスト

北伊丹製作所では転勤して2年後、MOS型 integrated circuitの開発チームに参加し、開発の成功に貢献しました。それ以降ほとんどの最先端製造技術開発に従事しました。そして32歳でヒト、モノ、カネの経営資源を掌握する半導体製造係長に昇進しました。
70年代に入ると、インテルがマイクロプロセッサや周辺用LSI とメモリーの概念を発表。テキサス・インスツルメンツやモトローラも次々に製品を出し、半導体業界は急速に発展しました。進藤も毎年のように回路の集積密度を高めましたが、微細加工技術で容量を増やすだけの世界に創造性を感じなくなり、いつしか興味は回路設計へと移っていきました。

  • 1969年(昭和44年) アポロ11号月面着陸
  • 1970年(昭和45年) 大阪万博開催
ページトップへ