1979(昭和54)年、進藤は38歳でリコーに転職しました。当時からリコーは複写機業界をリードしており、自社製品に使う半導体の内製化を目指していました。1981年に大阪府池田市に半導体工場(電子技術開発センター)を建て、本格的に事業に参入しました。
ここでも新規事業に取り組んだ進藤は、技術者を集めることから人材の教育・育成、工場の設計と建設、製造技術の開発などあらゆる仕事をこなしました。しかし半導体事業に関しては実績のない会社だけに、なかなか注文につながりません。リコーの事務機器部門にさえ採用されませんでした。仕方なく進藤は自ら顧客獲得に動き、米国にまで営業活動の範囲を広げました。
当時米国では、設計だけを行い生産は外部に委託するファブレス企業が台頭、活躍していました。そんななか進藤は、設計を専門にし、日本や台湾のメーカーに製造を依頼する典型的なファブレス企業であったVLSI Technology, Inc.(VTI)と巡り合います。VTIが設計したものをリコーが製造するファウンダリ(Foundry)ビジネスを受注することによって、リコーの半導体事業が始まりました。
国内でも大きな動きがありました。1980(昭和55)年頃、携帯型ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」を発売し大成功を収めた任天堂が、次の成長基盤を築くため家庭で手軽に楽しめる据置型ゲーム機の開発を考えていて、実績がない新参者のリコーにもチャンスを与えてくれました。
「ゲーム機は子供が使うので、価格はお年玉やお小遣いで買える2万円以下」と、任天堂のコンセプトや事業理念は明解でした。ゲームに特化したゲーム専用機であり、そのためには2チップまでのLSIが必須でした。任天堂の構想は以下の通りでした。
進藤はこのコンセプトに感銘を受けて課題を持ち帰り、社内で検討を始めました。
任天堂のコンセプトに対して、技術者は否定的な反応ばかり。進藤は何とか実現策はないかと考えて、次のようなアイデアを出しました。
進藤のアイデアはまさにシステムLSIの概念を創り出すものでした。「この方向でやりましょう」との話になり、2チップ構成のシステムLSIを設計することになりました。
ところが、社内の設計者にも縮小図を見せたところ、さすがに大規模な回路を約1cm角シリコン基盤上に集積することは至難です。そこでも進藤はアイデアを出し、任天堂との共同開発チームを編成して、不要な機能を徹底的に削り、回路規模を小さくして2チップのシステムLSIに集積する開発に成功しました。
こうして1983(昭和58)年、任天堂の「ファミリーコンピュータ」14,800円が発売され、大ヒットします。そしてリコー半導体事業部も1990年には従業員数1,100名、年商400億円に成長しました。